コラムスピン :第100回:「ロックと日本の60年」第1章 “ウェスタン”だったロックンロール

更新

バックナンバー一覧

第100回:「ロックと日本の60年」第1章 “ウェスタン”だったロックンロール

これから毎週、全14回を予定している連載シリーズ「ロックと日本の60年」。洋楽ロックが日本にどのような影響を与え、そして日本人がそれを消化・吸収して邦楽ロックとしていったかを記録する大作です。

この記事の筆者

1970年生まれ。音楽ジャーナリスト。NHK-FMで「ライブビート」など制作後、1999年よりフリーの音楽ジャーナリスト。2004年、インディ・ロック雑誌「Hard To Explain」を立ち上げ現在も継続中。2010年、ブラジルのサンパウロに移住。ジャーナリスト活動は依然継続中でポルトガル語、英語の翻訳業も展開。海外エンタメの情報ブログ、THE MAINSTREAMは毎日更新中。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

1955年、映画『暴力教室』の挿入曲だったビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が現象的ヒットとなり、ロックンロールが世に知られるようになってから今年で60年が経ちます。ロックは世界の若者、そしてポピュラー・ミュージックにおいて、その根底をなす大きな文化となり今日に至っていますが、今回から14回にわたって、日本がロックをどのように日本に伝え、どのように聴き、どのように日本の音楽へと変えていったかを紹介していこうと思います。第1回目の今回は、1950年代当時、日本にロックンロールがどう伝えられたか。これに迫ってみたいと思います。

焼け野原に米軍からもたらされた“カントリー&ウェスタン”

第2次世界大戦終了後の1945年8月以降、戦時中に「敵国音楽」と見なされていた欧米産の音楽が日本に戻ってきました。まがりなりにも大正や昭和初期には外国音楽の吸収に積極的だっただけに、それを取り上げられていた日本の音楽家にとってこれは朗報でしたが、当時まだ貧しく娯楽の少なかい世の中に生きていた若い音楽家志望にとっても外国からの音楽は刺激的な存在でした。それらの音楽はGHQ占領直後から日本に点在するようになったアメリカからの進駐軍や、進駐軍向けの放送局・極東放送(FEN)からもたらされました。「戦争に負けた国が勝った国の兵隊から音楽を吸収した」。そう言ってしまうと皮肉にも聞こえてしまいますが、その当時の、暗く貧しかった日本人にしてみれば、世界最高の富を謳歌するアメリカの文化はまぶしく映ったこともまた確かでした。

そんな外国音楽を吸収した日本の音楽家たちは、その食いぶちとして米軍施設などでも演奏するようになります。そこで演奏された音楽はジャズ、ラテン、ハワイアンといったものでしたが、その中に「カントリー&ウェスタン」がありました。この音楽は、アメリカで1920年代頃に生まれた音楽で、戦前〜戦中には日本に伝わっていないものでしたが、ちょうど進駐軍に中西部出身の兵隊が多かったこともあって演奏すると喜ばれ、その影響もあり日本の音楽家たちのあいだでも広がって行きました。 そして、1950~53年に起こった朝鮮戦争の際にも、日本の米軍基地は北朝鮮を攻撃する米軍の滞在拠点として使われたので、その分、米軍相手の音楽家たちの需要も高まりもしたわけです。

アメリカでロックンロール・ブームが勃発

日本の戦後から約10年が経過しようとしていた1955年7月、アメリカでひとつの音楽現象が起きました。それは映画『暴力教室』でのテーマ曲、ビル・ヘイリーが歌う「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が全米チャートで1位となり、その後2か月近くその座に君臨することとなったのです。この映画はティーンエイジャーの非行、校内暴力を描いたということでアメリカで公開禁止となる地域が相次ぎ、この主題歌もそうした危ないイメージを帯びることにもなりますが、これまでのアメリカでの流行りの楽曲になかった強いビートを伴ったこの楽曲は「ロックンロール」として広く世に知られることとなりました。

Bill Haley「Rock Around The Clock」

そして翌56年1月には、ビル・ヘイリーをも遥かに上回る現象を伴って当時弱冠21歳の青年、エルヴィス・プレスリーの大ブームがアメリカを襲います。エルヴィスはメジャー・デビュー曲「ハートブレイク・ホテル」を皮切りに出す曲出す曲をアメリカのチャートで1位に押し込み、一瞬にしてロックンロールでアメリカの音楽界のキングへと躍り出ました。そして、このエルヴィスの成功にあやかるように、ジーン・ヴィンセントジェリー・リー・ルイスバディ・ホリーエディ・コクランといったロックンローラーたちが続き、アメリカは一気にロックンロールの熱狂の渦に包まれることになりました。

Elvis Presley「Heartbreak Hotel」

Gene Vincent「Be Bop A Lula」

ロックンロールを“翻訳”した日本のウェスタン・アーティストたち

この熱狂を日本はどう受け止めたか。ロックンロールはアメリカでさえ生まれてまもない新しい音楽だったので、その当時の日本に同様の音楽をやっている人はいようがありません。55年12月には日本でも『暴力教室』がヒットしたこともあって「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のカバー・ヴァージョンが発売されましたが、歌ったのは江利チエミでした。14歳にしてアメリカのスタンダード・ジャズの名曲「テネシー・ワルツ」を堂々と歌いきった美空ひばりのライバルでしたが、そのアレンジは従来のスイング・ジャズのそれを出るものではありませんでした。

江利チエミ「ロック・アラウンド・ザ・クロック」

結局、この「ロックンロール」を日本で迎えたのはカントリー&ウェスタンのミュージシャンたちでした。それは「ロックンロール」が「ウェスタンの新種」との解釈をされていたからです。実際問題、ビル・ヘイリーはもともとがウェスタンのシンガーだったし、エルヴィスも日本では当初「ウェスタンの新星」として紹介されていました。事実、エルヴィスが日本で最初に紹介されたのは世界ブレイクの前年の1955 年12月「ウェスタン・キャラバン第4集」というウェスタンのオムニバス盤においてでした。これに加えて、この当時、ロックンロールの別の名称として「ロック」と、カントリー&ウェスタンの担い手となった中西部の田舎者を意味する「ヒルビリー」という言葉の造語である「ロカビリー」という言葉が使われていたという事実もありました。日本ではむしろこの「ロカビリー」という言葉の方が使われるようになっていたほどです。

そして1956~57年には東京都内でウェスタンのバンドたちによるロックンロールのカバーが演奏される機会が増えます。新宿のACB、銀座の美松、テネシー、池袋のドラムといったジャズ喫茶がそうした場所の提供先となりました。こうしたシーンの中から、人気バンド、ワゴンマスターズ小坂一也がエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」で56年にレコード・デビューを果たし、この年、早速この曲をひっさげてNHKの紅白歌合戦に出演するほどの人気も得ました。

小坂一也「監獄ロック」

日本芸能界の創世にも重要だった「ウエスタンカーニバル」

そして58年2月、当時、東京のエンターテイメント系の会場でもっとも大きかった有楽町の日本劇場(日劇)で、ロカビリーの祭典、「日劇ウエスタンカーニバル」が開催されましたが、これは日本におけるロックンロールのはじまりであり、日本の芸能プロダクションが確立される大きな契機にもなりました。

50年代前半から有楽町のビデオホールで開催されていたウェスタンのライブ・イベント「ウエスタンカーニバル」は、50年代半ば頃には入場できないファンが出るほどの盛況ぶりとなっていました。ちょうどその頃、ジャズ・ミュージシャンの夫と共に渡辺プロダクションを立ち上げたばかりの渡邊美佐は、ロカビリーが好きな妹の曲直瀬信子の影響で、ビデオホールやジャズ喫茶で行なわれていたウェスタンのイベントに足を運び、ジャズの次ぎにくるであろう次なる動きを感じていました。美佐と信子の母、曲直瀬花子はイギリス人の血が入ったクォーターで戦後に進駐軍の通訳をつとめていたことから、娘たちも同様に通訳として出入りするようになり、そこでアメリカのエンターテイメントを覚え、日本のエンタメ・レベルの底上げを図りたいと考えていました。

同じ頃、当時スイング・ウエストというウェスタンバンドのリーダーであった堀威夫は、エルヴィスなどロックンロール系の歌で大成功を収めていた「ウエスタンカーニバル」の成功に手応えを感じ、「もっと大きなところでやれないか」と思い立ったところから、新興音楽出版社(現在のシンコー・ミュージック)の草野昌一と、当時、日本のエンターテイメント系屋内会場で最大規模だった日劇で出来ないかと考えていました。しかし、日劇に直接の伝がなかった彼らは、渡辺晋に日劇の演出家・山本紫朗を紹介してもらうよう相談に行きましたが、渡辺は「自分はジャズ・ミュージシャンだから表には出たくない、美佐とやって欲しい」と返答し、これが功を奏しました。

そこで思惑が一致した渡邊美佐、堀と草野の3人はウエスタンカーニバルの日劇進出の計画を練りました。山本紫朗は当初乗り気でなかったのですが、当時、日劇で行われていたジャズのイベントの興行がふるわなかったことは認識していました。それは実は渡辺晋も同様に考えており、ビバップの影響が強くなったことでシリアスになり、ジャズで若者が踊れなくなっていたことに危機感を抱いていました。

そこで彼らは「大きなイベントのない2月なら」として開催を決定。また、小坂一也が既に「ロックンロール」を標榜してデビューしていたため、「さらに新しいイメージを植え付けたい」として、これをロックンロールのもうひとつの名称であった「ロカビリー」のイベントとして、このショーを売り出すこととなりました。

こうして日劇ウエスタンカーニバルは2月8日から14日に1週間に渡って開催されましたが、初日だけで9500人、1週間で45000人を動員する大成功を収めます。この成功をもって、渡邊美佐は「ロカビリー・マダム」と呼ばれ注目を集めるに至り、晋もジャズ・ミュージシャンをやめて事務所の経営に本腰を入れ、平尾昌章(現在の昌晃)、ミッキー・カーチス山下敬二郎の「ロカビリー3人男」を中心にマネージメント業を固めます。これが“ナベプロ”こと「渡辺プロ」の本格的なはじまりです。そして堀は一時的にナベプロに入るもやがて独立してホリプロを設立。ウエスタンカーニバルの人気者、守屋浩を売り出します。そして、渡邊美佐の母・曲直瀬花子が夫・正雄と戦後間もない頃からはじめていた「マナセプロダクション」も坂本九森山加代子といったスターを数年後に大成功させることになります。

ウエスタンカーニバルは、しばらくは年4回ほど開催のロカビリーのイベントとして定着し、ブームが去って以降も大手芸能事務所の音楽イベントとして1977年までこの名前で運営されていくことになりました。また、開催していく過程で、かまやつひろし内田裕也など、後の日本のロックの創世に貢献していく人たちも参加していくようになります。

こうした規模の大きなロックンロールのシーンが、アメリカでのブームから3年以内に存在していたというのは、世界の音楽シーンの中でもかなり早い方です。イギリスでさえ、この国最大のエルヴィス・フォロワーだったクリフ・リチャードがデビューしたのがその年で、他のヨーロッパ諸国はそれよりも遅いほどです。戦争に敗れ、アメリカの占領下に置かれたという文化的背景が、日本におけるロック文化の生成を早くから促したことに結果的につながりました。

当時のステージ

客席から紙テープが投げ込まれた、当時の盛り上がったステージ。

パンフレットと出演者①

パンフレットと出演者②

パンフレットと出演者③

パンフレットと出演者④

パンフレットと出演者

アメリカほど「危険」でなかった日本のロカビリー・ブーム

ただ、ロックンロールのシーンが出来た時期こそ早かったものの、当時の日本人のロックンロールの理解に限界もあったこと、これもまた事実です。今度はそれがなんだったかを語っていくことにしましょう。

そのひとつは、この当時の日本人が「ロックンロール」という音楽がアメリカでいかに異端扱いされ弾圧までされたかをほとんど理解していなかったことです。先ほど、小坂一也の「ハートブレイク・ホテル」が紅白歌合戦で歌われた話をしましたが、同番組ではその翌57年にもラテン歌手の浜村美智子が同じくエルヴィスの「監獄ロック」を、ジャズ系の少女歌手だった雪村いづみジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」を披露しています。昭和30年代のNHKにしてロックンロールの楽曲は歌ったところでなんの支障もきたさなかったのです。

今でこそ、「ロカビリー・ファッション=ヤンキー」のイメージが日本にもありますが、それはあくまで1970年代に矢沢永吉率いるキャロルが「ビートルズが下積み時代はこんな感じだった」というコンセプトで革ジャンとリーゼントで登場したのがその当時の暴走族を中心とした不良に大ウケし、その後に横浜銀蝿から氣志團に至るまで大量のフォロワーが生み出された結果の話であって、50年代の日本でのロカビリー・ブームがその当時の暴走族だった「カミナリ族」に受けいれられたという話はありません。

しかし、アメリカでは勝手が違いました。それは、歌っていたのはたしかに白人のカントリー&ウェスタンの系譜の歌手だったかもしれませんが、ロックンロールとは、彼らが黒人音楽であるリズム&ブルース調の歌を歌ったことからはじまったものだったからです。アメリカで公民権法が正式に制定されたのは1964年。この当時のアメリカは、公民権運動こそはじまってはいましたが、まだ世間一般の感覚では黒人は被差別人種の対象でした。「こともあろうに白人の子女が、黒人の文化にうつつをぬかすとは何事か」と、保守的な白人層は目くじらを立てたのです。

そうした保守層の怒りは、エルヴィスがテレビのパフォーマンスで、黒人起源の、セックスを露骨に想像させる下半身の激しい動きを伴ったダンスを披露したことで余計に広がってしまったのです。これをもってエルヴィスやロックンロールは遂には「キリスト教社会における悪魔だ」などとも呼ばれる始末となったのでした。

Elvis Presley 「Hound Dog」

ちなみにエルヴィスは敬虔なクリスチャンで支持政党は保守派の共和党です。公民権運動に参加したなどの話もないし、ロックンロールそのものにも、この当時は政治的意味合いは特にありません。黒人起源のノリの良いビートが子供や若者にとって気持ちがいい。ただ、それだけでした。その「爽快感」の部分はやがてすぐに他の国にも伝播することになりますが、他の国の人までがロックンロールをアメリカ文化の根底から理解するには、当時の情報量では不足していたことは否めないと思います。

また、日本の場合、「カントリー」の側からの理解に終始しリトル・リチャードチャック・ベリーなどの黒人のロックンローラーへの理解を欠いてしまったために、黒人音楽のリズムの醍醐味や野性味などの理解がどうしても薄くなってしまった感は否めません。実はこうした感覚を、この時期に限らず、日本は長きに渡り引きずってしまうことにもなります。それは、チャック・ベリーボー・ディドリーといったロックンロール・ギタリストを手始めに、アメリカの白人でさえ聴いていなかった黒人のブルース・アーティストを次々と発見して自らの音楽として吸収していった同時代のイギリスの若者との差として後年現れるようにもなってきます。

Chuck Berry「Johnny B Goode」

「元祖ロックンロール・スター」は小林旭説も

加えてもうひとつ当時の日本でのロカビリー・ブームに弱点があったとしたら、それが「全国的に広がったものでなかったこと」、そして「スターの持つカリスマ性」でした。折しも1958年という年はまだテレビの普及率が高くありません。この年の日本におけるテレビの保有台数はまだ100万台に達したばかり。当時の日本の総人口が約9100万人でしたから、せいぜい「90人に1人」しかテレビを持っていない計算です。この翌年に皇太子ご成婚があり、テレビ保有台数は倍の200万台にそれ以降は東京オリンピックだ、カラーTVだと、どんどん増えて行くことになりますが、いかんせん、そうなる時代の前のブームですから、全国的な浸透度ということで言えばどうしても不利になってしまいます。

加えて、いかに当時の日本のロカビリー・スターが日本の社会の中では洗練された存在であったとは思われますが、それが世界を震撼させたエルヴィスのような輝きが果たしてあったのか。エルヴィスという存在は、何も音楽だけが生み出した存在ではありません。彼が登場する前からアメリカは、その少し前から顕在化していた少年非行の問題もあり、「反逆児」が求められていた時代でした。それはハリウッド映画に顕著で、『乱暴者(あばれもの)』での革ジャン・バイカー姿のマーロン・ブランドや、『理由なき反抗』でのジェイムス・ディーンのような反逆児が人気でした。ロックンロールのキングが結局ビル・ヘイリーではなくエルヴィスになったのは、彼にそうした反逆児のハリウッド・スターに負けない容姿が伴っていたのも理由です。

そこに行くと日本にも、兄・石原慎太郎の小説「太陽の季節」で登場した日活のスター、石原裕次郎にはそうした反逆児イメージがないわけではありませんでしたが、音楽スターも兼ねていた当時の彼の音楽のスタイルは、フランク・シナトラのような、従来の大人のスタンダード・ジャズの日本人翻案風のムード歌謡でした。

その一方で、後にはっぴいえんど、ソロで日本のロック、ポップスの発展に大きく貢献することになる大瀧詠一は岩手県の小学生だった50年代後半を振り返り、「当時、エルヴィス と同様にこの人に憧れていた」として、同じ日活のスターでも小林旭の名前をあげています。彼曰く「当時、革ジャンに白いマフラーをしていた人が憧れたのはエルヴィスではなくアキラだった」と語っています。

大瀧ひとりの証言を全体にフィードバックすることには反論を抱かれる人もいるかもしれないし、小林旭本人が当時主演映画内で歌った曲がロックンロールだとも言い切れません。ただ、彼が1959年に発表した「ダイナマイトが150屯」が後に甲斐バンド真島昌利THE BLUE HEARTSTHE HIGH LOWSクロマニヨンズ)にロック・ヴァージョンでカバーされたという事実を考慮すれば、アキラの「日本の元祖ロックンローラー説」はあながち間違いでもないような気もします。それは、あの当時の日本のロカビリー・スターの歌った楽曲がその功績にも関わらず、後年ほとんどカバーされない状況を考えるとなおさらそう思えます。

真島昌利「ダイナマイトが150屯」

参考文献

■関連コラム

コラムスピン 第114回:「ロックと日本の60年」第14章 2000年代、世界のシーンは動き、日本は閉じた
Drillspin column

2000年代を代表する洋楽バンド5つ挙げよ!と質問されたらどれになりますか?iPodが発売(2001年)、iTunes Music Store(03年)、YouTubeスタート(05年)と視聴環境が目まぐるしく変わった時期でもあります。

コラムスピン 第112回:「ロックと日本の60年」第13章 世紀末、ブリットポップ、オルタナの死と、ピーク迎えた日本のロック・シーン
Drillspin column

今から18~15年前の90年代末、日本のロック/ポップ・シーンは多様化し、欧米と比較しても負けない一番カッコいい時期を迎えました。

コラムスピン 第111回:「ロックと日本の60年」第12章 オルタナ、ブリットポップ、そして渋谷系以降~「世代の断絶」さえ生んだ、情報世代のロック全盛期
Drillspin column

1994年から97年頃、バブルは崩壊したけれど日本の音楽ソフト売上げはピークに達し、国内外共にロックは充実。そして現在のフェスのヘッドライナーのほとんどがこの頃登場したアーティストです。

コラムスピン 第110回:「ロックと日本の60年」第11章 バブルの喧噪に射し込んだニルヴァーナ
Drillspin column

90年代前半、「オルタナティヴ」という言葉が生まれ、ロックアルバムの売上げにおいて邦楽と洋楽は完全に逆転、カラオケがブームとなり音楽業界の売上げはピークに向かいます。

コラムスピン 第109回:「ロックと日本の60年」第10章 バブルが洋楽を追いやり、バンドブームを経てJ-POPの時代へ
Drillspin column

80年代後半に入り日本はバブルの真っ最中。邦楽ロックのバンドブーム、また洋楽はLAメタルとダンスミュージックが一大ブームに。そしてJ-POPという言葉が誕生します。

コラムスピン 第108回:「ロックと日本の60年」第9章 80s前半、MTVとポップス黄金時代
Drillspin column

「ベストヒットUSA」でミュージックビデオを見ながらチャートをチェック。洋楽ロックはポップス化し、日本では山下達郎、ユーミン、サザンそして大滝詠一「ロンバケ」に「いけないルージュマジック」の頃です。

コラムスピン 第107回:「ロックと日本の60年」第8章 パンク/ニュー・ウェイヴの日本伝来
Drillspin column

ディスコ、AOR、フュージョンのブームと時を同じくして、それとはまったく異なるロックの新しい動きがニューヨークとロンドンを中心に動き始めました。そして、この頃には「日本語のロック」は当たり前のものとなります。

コラムスピン 第106回:「ロックと日本の60年」第7章 日本型アーバン・ミュージックの生成
Drillspin column

第6章のクィーンやKISSの時代を経て、大学生~20代を中心にウェスト・コースト、ディスコ、AOR、フュージョンが人気となる70年代後半、オカサーファー・ファッションの頃の話です。

コラムスピン 第105回:「ロックと日本の60年」第6章 クイーンを筆頭に、まばゆきロック・アイドルの時代へ
Drillspin column

70年代中盤、クイーン、KISS、そしてベイ・シティ・ローラーズの登場で洋楽ロックは中高生のハートをがっちりつかみ、その2、3年後にCHAR、原田真二、ツイスト、ゴダイゴが登場ということになります!

コラムスピン 第104回:「ロックと日本の60年」第5章 アメリカかイギリスか?日本語か英語か?
Drillspin column

ビートルズが解散し、海外ではアメリカン・ロック、ブリティッシュ・ハードロックやプログレが台頭、その頃国内では「日本語とロック」に関してちょっとした論争がありました。

コラムスピン 第103回:「ロックと日本の60年」第4章 60年代末、ロックも世界も激動の時代
Drillspin column

アメリカはベトナム戦争、日本は安保闘争、サイケデリック、サマー・オブ・ラヴ、モンタレーとウッドストックの間に当たる3年の間にギターの音は歪み、恋の歌では満足できなくなった頃の話です。

コラムスピン 第102回:「ロックと日本の60年」第3章 ビートルズでバンドに目覚めた!
Drillspin column

連載シリーズ第3章は、1964年以降のビートルズ旋風をきっかけとしたブリティッシュ・インヴェージョン~そしてほぼ同時期に国内で起きたエレキブームとGSの話です。

コラムスピン 第101回:「ロックと日本の60年」第2章 “アイドル”の原型、カバー・ポップス
Drillspin column

連載シリーズ第2章は、洋楽曲を日本語で歌うカバーポップス、アイドルと全米No.1を獲得した坂本九「上を向いて歩こう」を中心に60年代前半のお話です。

コラムスピン 第100回:「ロックと日本の60年」第1章 “ウェスタン”だったロックンロール
Drillspin column

これから毎週、全14回を予定している連載シリーズ「ロックと日本の60年」。洋楽ロックが日本にどのような影響を与え、そして日本人がそれを消化・吸収して邦楽ロックとしていったかを記録する大作です。

■この筆者「沢田太陽」の関連リンク

Hard To Explain
THE MAINSTREAM

■この筆者「沢田太陽」のコラム

読むナビDJ 第135回:2014年洋楽ベスト20アルバム by Taiyo Sawada
読むナビDJ 第125回:‘70sロック名曲がいっぱい!映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のサントラ盤11選
読むナビDJ 第118回:「ブラジル音楽の歴史」第7回~2010年代前半、現在のブラジル音楽
読むナビDJ 第116回:「ブラジル音楽の歴史」第6回~00年代、経済繁栄の時代
読むナビDJ 第114回:「ブラジル音楽の歴史」第5回~90年代(後)融合の時代
読むナビDJ 第112回:「ブラジル音楽の歴史」第4回~90年代(前)先祖帰りの時代
読むナビDJ 第111回:「ブラジル音楽の歴史」第3回~80年代、4大バンドを中心とした空前のロック・ブーム~
読むナビDJ 第109回:「ブラジル音楽の歴史」第2回~70年代、群雄割拠のレジェンドたち~
読むナビDJ 第106回:「ブラジル音楽の歴史」第1回~ボサ・ノヴァからMPB誕生まで~
コラムスピン 第87回:第56回グラミー賞動画付きレポート!!
コラムスピン 第83回:「ルーツ音楽」が希薄な世代(2):00年代編
コラムスピン 第82回:「ルーツ音楽」が希薄な世代(1): 80年代編

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

人気記事

1.2万円のヘッドホン(FOSTEX T50RP)を改造して12万円台の音にする
海外のヘッドホンマニアの間では定番となりつつあるFOSTEX T50RP MOD(改造)を自腹切ってやってみました。良い子は真似... 筆者:編集部K 2014/04/08(火) DrillSpin Picks
第41回:70年代ファンクここから聴け!ベスト10選
どれも代表曲ばかりですが、やっぱり全部いいね!生演奏モノホンのファンクにズボズボと浸ってください!! 筆者:印南敦史(いんなみ あつし) 2012/09/07(金) 読むナビDJ
ライブチケットの値段の内訳ってどうなってるんですか?
決して安くはないライブやコンサートのチケット、収益はいったい何処へ流れる? 質問者:おすばんさん 2011/11/29(火) 俺に訊け
第161回:追悼・ニューオーリンズが生んだ偉大なる作曲家アラン・トゥーサンの名演15選
ニューオーリンズ・ミュージックの外交官的な役目を担い、ロックやソウルをプロデュースした作曲家の(ホントはもっと入... 筆者:小川真一 2015/11/12(木) 読むナビDJ
第47回:いつの間にロック少年は「洋楽」を聴かなくなったのか?
かつてロック少年は、ガツンとくる洋楽ロックの洗礼を受けたもんだけど最近はすっかり見かけなくなってしまったようで。... 筆者:柴 那典 2012/12/04(火) コラムスピン

コラム一覧

画像について

Close it

DrillSpin内で表示している人物等の画像は、検索エンジンで画像検索を行ない、その最上位の結果を参照しています。 場合により最適ではない画像が表示されることがあります。

閉じる