コラムスピン :第101回:「ロックと日本の60年」第2章 “アイドル”の原型、カバー・ポップス

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第101回:「ロックと日本の60年」第2章 “アイドル”の原型、カバー・ポップス

連載シリーズ第2章は、洋楽曲を日本語で歌うカバーポップス、アイドルと全米No.1を獲得した坂本九「上を向いて歩こう」を中心に60年代前半のお話です。

この記事の筆者

1970年生まれ。音楽ジャーナリスト。NHK-FMで「ライブビート」など制作後、1999年よりフリーの音楽ジャーナリスト。2004年、インディ・ロック雑誌「Hard To Explain」を立ち上げ現在も継続中。2010年、ブラジルのサンパウロに移住。ジャーナリスト活動は依然継続中でポルトガル語、英語の翻訳業も展開。海外エンタメの情報ブログ、THE MAINSTREAMは毎日更新中。

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ロックと日本の60年。第1回の前回は、1955年にアメリカでロックンロールに火がつき、日本でもその影響を受け、1958年にロカビリーが東京で現象になった、という話をしました。今回はそのあと、ロックンロールが「アイドル」を介してソフトながらも浸透し、ひとつの文化を日本でも作りあげていくというお話です。

ロックンロールは終わったけれど

1950年代後半、日本は「神武景気」「岩戸景気」の2つの好景気で経済力を上げました。その頃にはまだ社会主義の影響を受けた労働者たちによる抗争や、岸信介首相のもと、「アメリカの同盟国」の色合いを強めた日米安保条約の更新に憤った学生が反乱を繰り広げたりもしましたが、1960年の池田勇人首相就任から、より経済活動に日本が専心するようになると、今度は「いざなぎ景気」という過去最長の好景気が訪れ、一般家庭に車や白黒テレビが本格普及するようにもなりました。

そんな最中、日本国内でのカルチャーも洗練されていきました。1960年前頃になると、東京のメインのラジオ局には、洋楽専門のランキング番組が続々と揃っていくことにもなりました。文化放送の「ユア・ヒットパレード」を皮切りにニッポン放送が「森永キャンディー・ベストヒット・パレード」、TBSが「グレラン今週のベスト10」、ラジオ関東が「ゴールデン・ヒットパレード」などがそれに当たります。一部ウェブサイトに残っている当時の記録を紐解いてみると、ランクインしている楽曲のほとんどが「○○楽団」という、映画音楽専門のオーケストラです。これはアメリカではこの時代まで何10年も続いていた傾向で、まだポップ・ミュージックが「映画に付随するおまけ」的な印象があった頃です。そこに全体の3~4割ほどでしょうか、若いシンガーの名前が散見されるのですが、そこにはエルヴィス・プレスリーを除いて、ロックンロール・シンガーの名前はありませんでした。

それは1957~60年にかけて、ロックンロール・スターに次々と災厄が襲いかかって来たためです。愛国者のエルヴィスは2年間兵役に就き、除隊後の復帰後も人気を保ちますが、乱発した主演映画の主題歌は既にロックンロールではなくなっていました。またチャック・ベリーは婦女暴行の容疑で逮捕され、ジェリー・リー・ルイスは13歳の従兄弟と結婚し社会的批判を受け、リトル・リチャードは一時引退、エディ・コクランは交通事故死します。そしてバディ・ホリーリッチー・バレンスの飛行機事故死は後にドン・マクリーンの1972年のヒット曲「アメリカン・パイ」や、73年に世界的に大ヒットした青春映画『アメリカン・グラフィティ』の中の一節で「ロックンロールはバディ・ホリーが死んだ日に終ったんだ」とまで謳われました。

ポール・アンカが日本でブームを牽引

では、ロックンロール・スターに代わって何が人気を得たか、というと、それはアイドルでした。もちろん、エルヴィスを筆頭としたロックンローラーも10代の子供に大人気のグッド・ルッキングのスターだったのでアイドル的な存在であったことには変わりはないのですが、ここで言う「アイドル」とは、「ロックンローラー」ほどには刺激の少ない、安心して見ることのできる、品行方正な良い子イメージの若いスターのことです。アメリカでは彼らが1959~63年に高い人気を誇ることとなります。

その最初の代表的な例がポール・アンカでした。彼が1957年に放った全米ナンバーワン・ソングの「ダイアナ」は日本でも大ヒットし、翌年には“ロカビリー3人男”の山下敬二郎のカバーでさらに知られるようになります。アンカは58年に当時の外タレとしては貴重な来日公演も行い、強い影響力を持つ存在となります。それは彼のもうひとつの代表曲「君こそわが運命」を模した水原弘の「黒い花びら」が、1959年にはじまった第1回日本レコード大賞の大賞受賞曲になったことにもあらわれています。

ポール・アンカ「Diana」

このアンカに加え、パット・ブーンニール・セダカジョニー・ティロットソンボビー・ヴィーリッキー・ネルソンデル・シャノンディオン(当時の日本表記ダイオン)などが人気を獲得します。そして女の子ならコニー・フランシスブレンダ・リーペギー・マーチレスリー・ゴアなどが時代の花となりました 。また、コニー・フランシスなど特に人気の出たシンガーは、本人が歌う日本語ヴァージョンまでが生まれたほどです。

コニー・フランシス「Vacation」

「ザ・ヒットパレード」からはじまった“和製ポップス”の時代

1959年、開局間もないフジテレビにひとつの音楽番組が登場します。その名は「ザ・ヒットパレード」。番組を手がけたのは「日劇ウエスタンカーニバル」でロカビリーを当てた渡辺プロでした。ナベプロは、自社の抱える数多くのアイドルたちを中心にアメリカで流行りのアイドル・ポップスのカバーを歌わせ、これらの音楽の魅力をわかりやすく茶の間に浸透させました。

この番組からは数多くのスターが誕生しました。男性では当時最大のスターとなった坂本九を筆頭に、守屋浩飯田久彦井上ひろし、女性ではザ・ピーナッツ弘田三枝子森山加代子田代みどり、“三人娘”と呼ばれた中尾ミエ伊東ゆかり園まりなどが登場して人気を博します。そしてソングライターでも、歌詞の訳詞家に漣健児をはじめ、作詞家に永六輔、作曲家に宮川泰中村八大、そして「ザ・ヒットパレード」のプロデューサーでもあった椙山浩一(後のすぎやまこういち)などが活躍し、日本のポップ・ミュージックの礎を築いていくことになります。なお、漣健児とは「日劇ウエスタンカーニバル」の発案者の1人、草野昌一の別名で、彼の手がけていたジャズ雑誌「ミュージック・ライフ」は58年からカバー・ポップス専門誌となり、ブームの盛り上げ役にもなっていました。

ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」

「ザ・ヒットパレード」は10年以上続く人気番組となり、日本におけるその後の歌番組の基本にもなりましたが、渡辺プロはこの番組の成功後、日本テレビにバラエティ番組の元祖「しゃぼん玉ホリデー」、初のオーディション番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」を制作します。これらの番組で同プロは音楽のみならず、お笑いにも尽力します。前者にはクレイジーキャッツ、後者にはドリフターズという、後に日本のお笑いの重鎮となる存在がメインで出演していました。ミュージシャンとしても、元々、クレイジーはジャズ、ドリフはウェスタンのバンドで、両者共に米軍キャンプの巡業で演奏もギャグも磨いた人たちでもありました。

では、この当時、これらの“和製ポップス”とも言われていた人たちの日本の音楽界における人気がどれくらいのものだったか、見てみることにしましょう。1961~65年に毎年行われた、当時日本の芸能雑誌で1、2位を争っていた「週刊明星」「週刊平凡」の「男性歌手」「女性歌手」の人気投票を見てみると、男性、女性共に上位10人の大半を占めたのは主に演歌系の歌手で、橋幸夫美空ひばりを筆頭に、三橋美智也三波春夫舟木一夫西郷輝彦島倉千代子こまどり姉妹などが上位に並んでいます。その中で和製ポップス勢は、男性で坂本がだいたい3位くらいで、あとはそのすぐ下くらいに守屋、あと、もう1人が年によって入ったり、という感じです。女性は弘田か森山が2、3位の年があって、ピーナッツが大体5~7位くらい、あとは年によって中尾が入るくらいと、男女で大体3~4割くらいの勢力です。言うなれば、「強めの野党第1党」くらいでしょうか。

「Sukiyaki」の成し遂げた金字塔

ただ、この和製ポップスは、この時代、空前絶後の快挙をも同時に成し遂げます。1963年6月、坂本九がこの2年前に日本でリリースした曲、「上を向いて歩こう」が「Sukiyaki」なるタイトルで、ビルボードの総合シングルチャートで第1位に輝いたのです。この曲はそのまま3週に渡って全米を制覇することになります。

坂本九「Steve Allen Show」

この曲の成功のいきさつは諸説あるのですが、日本版ウィキペディアの例に従うと、まず、1961年にイギリスのパイ・レコードというレーベルの社長が来日して、お土産でもらったこの曲を気に入り、自身のレーベル所属のケニー・ボール楽団にインストとしてこの曲をカバーさせました。そのときに、このままのタイトルでは、仮に英語に翻訳しても意味がイギリス人リスナーに通じないと考え、周囲に相談の結果、知られていた日本語の「Sukiyaki」に変えて発売しました。すると、このヴァージョンは63年2月に全英チャートの10位を記録しました。

それだけでも十分快挙だったのですが、そこからさらにドラマは続きます。このケニー・ボールのヴァージョンはアメリカでも発売されますが、それは100位にも入らない結果に終ってしまいます。しかし、北西部ワシントンシ州のラジオDJが、番組のリスナーから偶然、坂本のオリジナル・ヴァージョンを手に入れオンエアしたところリクエストが殺到。その波がやがて全米規模に広がって全米1位に至りました。そのリスナーは日本のペン・フレンドからのプレゼントでそれを手に入れたようなのですが、それがこんなことになろうとは誰が想像したでしょう。

こうした話をすると、この「Sukiyaki」の成功は偶然に聞こえるかもしれません。しかし、単に偶然にヒットしただけなら、1981年にディスコ・グループのテイスト・オブ・ハニー、94年にR&Bグループの4P.Mによって、カバーで2度も全米トップ10に返り咲いたりするでしょうか。これはもう純粋に「曲の力」と呼んで良いものだと思います。作曲をしたのは中村八大でしたが、これは彼のソングライティング能力が認められた結果だと少なくとも僕は思うし、この時点でも、チャンスにさえ恵まれ(それが一番難しいのですが)れば、日本の楽曲が世界に通用することを証明した一瞬だったと思います。既に日本は黒澤明小津安二郎溝口健二が世界の映画界に紹介され、50年代前半からちょっとしたジャパン・ブームを生み出していましたが、それにつぐ日本のエンタメの快進撃と言えるでしょう。

加えて、曲調こそ、ボビー・ダーリンの「マック・ザ・ナイフ」のようなライトなスタンダード・ジャズ調ではありましたが、坂本の息をぬいた独特な唱法のインパクトもあったと思います。この唱法は一見「日本的」にも移りますが、坂本自身がエルヴィスとバディ・ホリーを好きで真似ているうちに自然に生まれたものだと認めているように、日本人がロックンロールを体得する上で生まれたものと見ることも可能だし、日本のロック史にとって意義あるものだと言えるでしょう。また坂本は58年8月、第3回目の「日劇ウエスタンカーニバル」に初参加した際、弱冠16歳で黒人ロックンローラーのリトル・リチャードのナンバーを歌いきったほどの実力でもありました。

ヨーロッパには強く、黒人には弱かった

この“和製ポップス”のブームですが、もうひとつ特筆すべきは、これがただ単にアメリカのアイドル・ポップスをカバーしたのみならず、イタリアやフランスなどヨーロッパの国のポップスも網羅していたことです。この当時、フランスとイタリアは映画とファッションでアメリカにも負けない強い影響力があり、音楽も国際的に売り出し、日本の音楽出版も買い付けに積極参加しました。特にこの頃、イタリアで開催されていた(現在も続いてはいますが)、サンレモ音楽祭の国際的影響は強かったものです。

こうしたカバーの影響もあって、フランスではシルヴィ・バルタンフランス・ギャル、イタリアではジリオラ・チンクエッティミーナボビー・ソロといったシンガーが日本でも高い人気を誇っていました。特に女性シンガーの場合は、その洗練されたファッション・センスもあいまって、アメリカのガール・シンガーの人気が下降した60年代半ば以降もむしろ人気を上げて愛されました。こうした伊仏のポップスの人気は、70年代前半のフランスのミッシェル・ポルナレフのブームまで続くことになります。

シルヴィ・バルタン「アイドルを探せ」

しかし、その一方で、この当時のアイドル・ポップの一旦を握った黒人アーティストには弱かった点は否めません。感覚的にはフォー・シーズンズのような白人のドゥワップや、当時としては強めのリズムであったツイスト・ダンスなどには対応できた日本人でしたが、たとえば黒人の女性ヴォーカル・グループなどのヒットにはとぼしいです。ビートルズが後にカバーもしたシュレルズ、そして、“元祖プロデューサー”、フィル・スペクターが手がけたクリスタルズなどのガール・グループ、そして、この当時はこのテのアイドル・ブームにも乗っかっていた黒人音楽レーベル、モータウンのマーヴェレッツマーサ&ザ・ヴァンデラスなども。特にモータウンはこの後、ダイアナ・ロス率いるスプリームスビートルズにさえも匹敵する世界的ヒットメイカーにすることにもなりますが、日本での60年代当時の人気は他の国のそれと比較するとパッとしないもので終っています。この件に関しては、曲構成が複雑化し、訳詞が乗りにくくなったのも要因と言われています。

マーヴェレッツ「プリーズ・ミスター・ポストマン」

唯一、フィル・スペクターの妻となるロニー・スペクター擁するロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」が63年に「あたしのベビー」のタイトルで伊東ゆかりにカバーされたことも手伝ってヒットしています。この曲は、このアイドル・ポップ時代の最大のヒットメイカー、スペクターの今日に至るまでの最大の代表曲のひとつでもあるので、これがヒットしたのはせめてもの救いでしょうか。フィル・スペクターの“ウォール・オブ・サウンド”に関しては、日本ではむしろ70年代以降に再評価されていくことになります。

ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」

また、黒人女性ヴォーカルだけではなく、この頃の黒人ポップ・ヴォーカルに関して全般的に弱かった点は否めません。黒人起源の音楽であったことにより、50年代後半のアメリカでのロックンロールのライヴ・ショーなどには黒人の若手のドゥワップのグループが参加することも珍しくなかったし、そうした文化の再評価は後にラッツ&スター山下達郎などによってもなされましたが、この当時にそうした空気感は日本に入って来たとは言いがたいものでした。日本においてドゥワップは、アメリカでも大人向けだったプラターズが、ダーク・ダックスボニー・ジャックスといったコーラス・グループに楽曲をカバーされることで人気を得ていたくらいでした。

また、現在では日本でもオールディーズのスタンダードとなっているベンEキングの「スタンド・バイ・ミー」も当時日本では大きなヒットにはなっておらず、キングの属したドゥワップ・グループのドリフターズの「ラストダンスは私に」は元宝塚のスターで当時の紅白歌合戦で大トリもつとめた越路吹雪によってカバーされて大ヒットしましたが、彼女の従来の歌のイメージから、フランスのシャンソンのカバー曲との誤解も受けました。

アイドルの時代の終わりと、アメリカ社会の変化の兆し

そして、黒人ということで言うと、ちょうどこの60年代の前半が、アメリカで公民権運動が活発化していた頃でもありました。この運動に関して直接的に言及した黒人アーティストのポップ・ソングはまだほとんど見られない時期でしたが、レイ・チャールズサム・クックジェイムス・ブラウンジャッキー・ウィルソンの“四天王”を中心に、リズム&ブルースがゴスペルの歌唱法やコーラスを取り入れ、音楽を変革する時期にさしかかっていました。これらはやがて“黒人の魂の音楽”ということで後に“ソウル・ミュージック”と呼ばれるようになります。

この当時の日本では、こうしたアーティストの作品の発表こそあれど、大きな人気を得ませんでしたが、レイ・チャールズだけは別格の人気を誇りました。それはレイが日本で当時人気のあったカントリー・ミュージックのカバー楽曲の作品を世界的に大ヒットさせていたことも功を奏しました。そうしたヒットの後に「What’d I Say(なんと言ったら)」のようなそれ以前のナンバーも日本で受け入れられ、曲間でレイが女性コーラスとかけあうコール&レスポンスは、日本のミュージシャンのあいだでもコンサートで取り入れられたほどです。レイは1964年には来日公演を果たし、洋楽ロック誌に転じていた「ミュージック・ライフ」でも表紙を飾ったほど話題になりました。

公民権運動を音楽で盛り上げたのは黒人側ではなく、むしろ社会意識の強い白人のフォークシンガーたちでした。フォークに関して言うと、日本でも1960年代に入る頃にキングストン・トリオブラザーズ・フォーなどが映画音楽やアイドル・ポップス並に既に人気がありました。彼らのアコースティック・ギターの素朴な音色やハーモニーの美しさが人気があり、前者は61年、後者は62年に来日を果たし好評を博します。

そして翌63年にはピーター・ポール&マリー(PPM)が日本で紹介され、その男女混成ハーモニーの美しさで人気となりますが、そのヒットの中に公民権運動について歌った「風に吹かれて」など社会的な曲も目立ちました。なお、同曲を作ったボブ・ディランはこの時点でまだ日本には紹介されていません。PPMも前述の2バンドに匹敵する人気を獲得し、64年には初来日公演も成功させます。彼らに触発されて小室等PPMフォロワーズを結成するなど、日本フォーク界の曙がはじまることにもなりますが、このあたりの話は第3章以降にしましょう。

また、アメリカ社会も徐々に政治的に緊迫感を帯びはじめていました。公民権運動のほかにも、62年にはソ連との東西冷戦の緊張の中、“キューバ危機”があり、63年11月にはケネディ大統領の暗殺事件、そして翌64年には米軍のベトナム攻撃がはじまります。その裏で、健康的で楽天的なこの時代のアイドルは徐々に姿を消し、音楽界も変化を余儀なくされていきます。

アイドル・ブームのその後

そして日本での“アイドル・ブーム”も、1964年以降の新しい音楽の波に飲まれ一瞬にして過去のものとなります。日本の芸能事務所もその後もGS(グループ・サウンズ)のバンドや、フォーク歌手を手がけたりもしますが、ロックやフォークがシリアスな方向に進むにつれ撤退して行き、70年代初頭には再びアイドルのマネージメントに戻って行きます。

この頃にはもう欧米ではアイドルのスタイルは流行っていなかったため、再生したアイドル文化はかなり日本独自の物となっていましたが、南沙織天地真理山口百恵桜田淳子森昌子の“中3娘”や野口五郎西城秀樹郷ひろみの“新御三家”、 フィンガー5キャンディーズなどの活躍もあり、60年代のアイドル・ブームを大きく上回る規模の人気を誇り、「明星」や「平凡」の表紙を独占する文化を作り上げることにもなります。

この時代になると、もうアイドルは“洋楽カバー”ではなく、オリジナルを歌うようになりますが、70年代の前半までだと、本人自身が熱心な洋楽ロック・ファンだった新御三家の3人や、日本に返還される前後の沖縄から出て来た南沙織フィンガー5が頻繁にライブで洋楽カバーを歌っていたりもしていました。また、ジャニーズ事務所も初期はアメリカでの成功を目指して60年代半ばには同事務所最初のヴォーカル・グループだったジャニーズ、70年代初頭にはフォーリーブスの海外進出盤をアメリカのレーベルMGMと英語楽曲で制作していたという話もあります。 彼らのこうした逸話からも、60sの和製ポップスの時代の頃のアイドルの痕跡が感じられます。

参考文献

■WEBサイト
港町のカフェテリア『Sentimento-Cinema』
歌の殿堂
上を向いて歩こう Wikipedia
「上を向いて歩こう」特集
プラターズ 2011年日本公演 宣伝文

■書籍

「ロックンロールの時代(ロックの歴史)」
萩原健太著 シンコーミュージック
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「そうだったのか!日本現代史」
池上彰著 集英社文庫
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「ロック革命時代―1965‐1970 強者ロッカーを生み出したロックの激動期」
青柳茂樹著 シンコーミュージック
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「ぼく達はこの星で出会った」
中村八大著 、黒柳徹子(編集)、永六輔(編集) 講談社
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「CDジャーナルムック 漣流」
和田彰二著 音楽出版社
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