コラムスピン :第103回:「ロックと日本の60年」第4章 60年代末、ロックも世界も激動の時代

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第103回:「ロックと日本の60年」第4章 60年代末、ロックも世界も激動の時代

アメリカはベトナム戦争、日本は安保闘争、サイケデリック、サマー・オブ・ラブ、モンタレーとウッドストックの間に当たる3年の間にギターの音は歪み、恋の歌では満足できなくなった頃の話です。

この記事の筆者

1970年生まれ。音楽ジャーナリスト。NHK-FMで「ライブビート」など制作後、1999年よりフリーの音楽ジャーナリスト。2004年、インディ・ロック雑誌「Hard To Explain」を立ち上げ現在も継続中。2010年、ブラジルのサンパウロに移住。ジャーナリスト活動は依然継続中でポルトガル語、英語の翻訳業も展開。海外エンタメの情報ブログ、THE MAINSTREAMは毎日更新中。

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前回はビートルズが日本に伝えられた1964年から、日本でロックがどう紹介され、日本のロックシーンがどうなって行ったかについて書きました。60年も半ばのこの時期、まだ「ロックバンド」にはアイドルのイメージもあったのですが、それが1967年から大きく変わっていくことになることを今回は語って行きましょう。

1967年という年は、そのはじまりからこれまでとは違う文化様相を漂わせる1年でした。1月に前年「ドナ・ドナ」で美しい歌声を聞かせたフォークの女王、ジョーン・バエズが来日公演を行い、その模様がテレビ中継されるほどのブームとなりました。その際、彼女はMCでベトナム戦争や広島原爆に関することを話したのですが、通訳を担当した、その当時。洋楽ヒットパレード番組のDJでおなじみだった高崎一郎がその部分をごまかして訳したため問題となりました。一説によると、このとき高崎はアメリカのCIAからそうした箇所を訳さないよう脅しをかけられていたといいます。

続いて2月、ローリング・ストーンズミック・ジャガーキース・リチャーズがロンドンで麻薬の不法所持で逮捕されます。当時、髪が長くてうるさいだけで「不良」よばわりされていたわけですから、「麻薬で逮捕」のインパクトが日本の音楽ファンにどれだけ大きかったか想像に難くありません。

「ミュージック・ライフ」67年5月号では、ミックとキースの逮捕も絡める形で「サイコディリック(当時の表記)・ミュージックとはなにか」という特集が組まれました。その特集で湯川れい子は、LSDについての説明を行い、それがビート文学者のアレン・ギンズバーグや大学教授のティモシー・リアリーといった知識人に奨励されていること、LSDを使った最初のポップソングをザ・バーズの「霧の8マイル」としていることなど、この時点でかなり詳細な情報を書いています。また、朝妻一郎は「フラワー・ムーヴメント」についての記事を書き、サンフランシスコやニューヨークでは、LSDやマリファナ、バナナの皮を焼いて乾かしたものでハイになったヒッピーたちが「ラヴ・イン」「ビー・イン」というイベントを行っている、との記事を書いています。また、「インサイド・ロンドン」というロンドンからのレポート記事でも、「最近のサイコ(原文まま)のバンドは不気味な前衛映画をステージで使う」と記し、さらに、ピンク・フロイドというバンドがカラフルな光を使い、「まじめな人が聴くと気が狂うような音楽」をプレイしていると書いています。ロックを大きく変えることとなるこの年の6月の前までに、ここまでの情報が当時の日本に入っていたことには注目です。

衝撃の「サマー・オブ・ラブ」

そして67年夏、のちに「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれることにもなるこの季節にその傾向がより激化することになりました。まずはビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』という、不思議な名前のアルバムを出します。そして絶世のアイドルだった彼らは原色のミリタリー・ルックに身を包み、口ひげまで生やすありさまです。その前の年からギターをはじめ音が歪みはじめ、テープ操作による奇妙な音やインド音楽などの影響まで聞こえはじめていたビートルズでしたが、それがさらに一歩進んだ印象でした。そして、ここからロックが「1曲2〜3分の楽曲」での表現から、「10数曲で1枚」のアルバムで表現するものとなります。

The Beatles「Sgt.Peppers Lonely Hearts Club Band」

そして、まだ日本にライトショーを伴うようなサイケなコンサートを行うアーティストの来日こそありませんでしたが、そうした噂の伝聞をも大きく上回るインパクトの話も入ってきました。それが「モンタレー・ポップ・フェスティバル」。ロック史上最初の重要なロック・フェスティバルでした。

6月18日から20日の3日間、まさに“サイケの聖地”、サンフランシスコの郊外で行われたこのフェスからは連日数々の伝説が生まれ、これまでのロック・コンサートからは飛び出なかったようなスターが生まれました。最新鋭のテクノロジーに彩られた超絶的なギター・テクニックを規格外の爆音でならし、最後にはギターに火をつけ燃やした天才ギタリストのジミ・ヘンドリックスに、黒人への敬意(リスペクト)を白人聴衆に強く請うかのような誇り高きシャウトを聴かせたソウルシンガーのオーティス・レディングの2人の黒人。さらに地元サンフランシスコからは、 ロックバンドから2人のフロント・ウーマンが注目を浴びました。1人がジェファーソン・エアプレイングレース・スリック、そしてもう1人がビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーの、豪快なシャウトと、それとは裏腹の繊細で孤独な生き様で後続のシンガーに強い影響を与えたジャニス・ジョプリンでした。放浪の若者が男女の区別なく共同生活をしたシスコらしいカリスマです。

Jimi Hendrix「Wild Thing」@Monterey Pop Fest

Otis Redding「Try A Little Tenderness」

Big Brother&Holding Company「Ball And Chain」

日本での「サイケ以後」

このモンタレーの後、その影響が日本の洋楽界にも及びます。上記のアーティストの作品発表があったのはもちろん、67年年内までにシスコ・サイケの雄、グレイトフル・デッド、シスコのライバル都市LAの奇才フランク・ザッパ率いるマザーズ・オブ・インヴェンション、そして前述のロンドンのピンク・フロイドの日本盤作品が次々と発表されます。今の耳で聴いても十分実験的に聞こえるこの3つのバンドが当時の日本で時差なく発表されていることは注目に値します。ただ、デッドのデビュー・アルバムが「サイケデリック これがシスコ・サウンド」、マザーズとフロイドのシングル曲がそれぞれ「つらい浮世(原題:Trouble Everyday)」「エミリーはプレイガール(原題:See Emily Play)との邦題センスだったところに当時らしさは感じさせますが。なお、この年にリリースされ、今や“元祖パンク”とも呼ばれるヴェルベット・アンダーグラウンドのデビュー作『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ』は発売されず、日本登場は1973年まで待たなければなりませんでした。おそらく「サイケは西海岸」の意識が強すぎたのでしょう。

そして、モンタレーで蒔かれた種も、日本では68年までには着実に開花していくこととなります。ジミヘンや、同じくモンタレーのステージで話題(ジミヘンには喰われたのですが)となったザ・フーといった、音の割れや歪みも目立つハードなギター・サウンドが日本のラジオでもかかるようになります。さらに、これに続く形で、イギリスでジミヘンと比較の対象になっていたエリック・クラプトン擁する超絶技巧トリオのクリームや、クラプトンが以前在籍していた不遇のバンド、ヤードバーズ(第3章参照)で彼の後任ギタリストだったジェフ・ベックも技巧的なハードロック・ギターで台頭します。ここでようやく日本でも、ストーンズやヤードバーズが早くから展開していたブルースを下地としたロックンロールの理解が進みます。

なお、ヤードバーズは67年6月に日本公開されたイタリアの名匠ミケランジェロ・アントニオーニの名作映画『欲望』のロンドンのライブハウスで観客を沸かすバンドの役で登場する栄誉を得ますが、そのときにベックがコンビを組んでダブル・リード・ギターをつとめていた男が作ったバンドが次の時代の英雄となることにもなります。


また、モンタレーには出演しなかったものの、LAのカリスマで、まさに67年夏に「ハートに火をつけて」の全米1位で現象的に成功を収めたドアーズも時代の顔となります。黒い衣装に身を包み、アングラ演劇の主人公のような煽りと歌の呪術性をもってフロントマンのジム・モリソンは一躍ロック界屈指のカリスマとなります。さらに、フラワー・ムーヴメント讃歌のスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」や幻想的なオルガンの調べが印象的なプロコル・ハルムの「青い影」などの大ヒット曲も生まれました。

そして、モンタレー出演の約半年後に飛行機事故でオーティス・レディングがまさかの死を遂げますが、その悲劇が英雄性を高め、遺曲「ドック・オブ・ベイ」が全米1位に輝き、さらに当時の日本で黒人アーティストとして異例の大ヒットを記録します。これを機に、日本でもようやくソウル・ミュージックへの関心が高まり、続けてアレサ・フランクリンジェイムス・ブラウンといった大物もしっかり売り出されます。そして、当時アメリカで最も成功していたアメリカの黒人音楽レーベル、モータウンも68年2月にスティーヴィー・ワンダーマーサ&ザ・ヴァンデラスを引き連れて初のパッケージ・ライブを日本で行い好評を博します。さらに同年5月には東京・赤坂に初のゴーゴー・クラブ「赤坂ムゲン」も出来上がり、黒人バンドによる生演奏とサイケな照明のもと、多くの文化人や若者たちが集う、その後のディスコやクラブの原型がここで出来ました。

これらの音楽が比較的スムースに日本でも伝えられたのは、放送媒体の影響も少なくありません。ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」やTBSの「パック・イン・ミュージック」、文化放送の「セイ・ヤング」といった深夜放送の番組では、これらの音楽が「世界の若者たちの新しい価値観」として理解を示して積極的に紹介されました。その中のひとり、「オールナイト・ニッポン」のパーソナリティのひとりとなる亀淵昭信がモンタレーをアメリカ留学中に運良く体験できたりしたこともその大きな要因のひとつだとも言えます。時代はテレビの所有率が急速に上がっていた頃で、ラジオが「若者の文化」に着目することで対抗するにも良いタイミングだったのです。

そしてテレビや雑誌、広告でも鮮やかな原色や歪んだ文字を駆使したサイケ柄のデザインが田名網敬一横尾忠則宇野亜喜良の活躍により広がっていきました。

こうした新しい音楽的刺激は、感度の強い日本のGSのバンドにも取り入れられることとなります。当時のサンフランシスコを訪れシーンに衝撃を受けたホリプロ社長・堀威夫の薫陶を受けたモップスは日本随一のサイケデリック・ロックバンドとしてシーンを引っぱり、横浜の米軍基地で米兵の観客をもうならせていた実力派のゴールデン・カップスルイズルイス加部ミッキー吉野などの名プレイヤーと、ブルース・ロックやソウル・ミュージックをいち早く吸収した敏感さえをもって“GS一の実力派”として尊敬を受け、奇才ギタリスト山口富士夫擁するダイナマイツは当時の日本としては破格なフィードバック・ノイズの強い骨太なギター・スタイルで注目を集めました。その他にもカップスの弟分で柳ジョージが率いたパワーハウス、“和製ジャニス・ジョプリン”こと麻生レミを擁したフラワーズ、“和製プロコル・ハルム”とも呼ばれたハプニングス・フォーなども実力派で鳴らしました。

そしてジャックスは、フリーキーで緊迫感溢れる演奏に加え、寂寥感や絶望感を歌った早川義夫の詩世界と呪術的なヴォーカルをもって「和製ドアーズ」、あるいは「日本のヴェルヴェット・アンダーグラウンド」といった評価もされています。彼らに関してはGSよりむしろ日本のロックの次なる段階に近いとも言えるでしょう。

ジャックス「マリアンヌ」

日本で「アングラ・フォーク」の時代到来

そして68年、海の外から聞こえてくるシリアスな時代な空気に押され、日本の音楽界にも創意工夫を持った若者たちが独自の音楽を築き上げていくことになります。そのキッカケとなったのは京都の学生バンド、フォーククルセダーズでした。北山修加藤和彦が率いた彼らは、当時の関西の学生フォーク・シーンで活動し、大学卒業と共に活動を終えるつもりでしたが、その記念で67年10月に発表した自主制作盤「ハレンチ」に目を付けた東芝音工が権利を買い取り、その中の1曲「帰ってきたヨッパライ」を発売したところ、あれよあれよと話題となり、オリコン・チャートで1位となる快挙を成し遂げます。

フォーククルセダーズ「イムジン河」

すると、ここから関西のフォーク・シーンが活気づきはじめます。京都でボブ・ディランの歌などを日本語訳して歌っていた高石ともや中川五郎がその前年67年からはじめ、フォークルも出演していた関西フォークキャンプが話題を呼びはじめたのです。そこに回を重ねるごとに京都・大阪の名うての実力派に加え、はるばる東京からも高田渡遠藤賢司など、その後のフォーク史に残るフォークシンガーが次々と集うようになっていきます。

その中で、68年9月にシングル「山谷ブルース」でビクターからデビューした、同志社大学中退の若者、岡林信康は、社会の偽善に対する怒りや虐げられた人たちの心の痛み、精神の真の自由の追求などをテーマにした歌の数々で、彼と同じ戦後に生まれ、一躍、“フォークの教祖”“和製ボブ・ディラン”と称され、カリスマ化して行きます。

岡林信康「山谷ブルース」

この68年から69年という年は、戦後生まれの若者の、それ以前の世代への疑念が強くなっていた頃でもありました。チェコスロヴァキアでの「プラハの春」やフランスの「5月革命」など、学生を中心とした反体制運動が世界から伝えられ、アメリカでも、当初「短期で終わる」と目されていたベトナム戦争が泥沼化し、さらに米軍が無抵抗のベトナムの農民を虐殺したことなどが報じられはじめ、学生やヒッピーによる反戦運動が激化していました。

それは、60年安保でアメリカの同盟国化が強化され、米軍基地にもベトナムで負傷した米兵が運ばれていた光景を見ていたこともあいまって、日本の若者のあいだでも「自分たちも戦争に巻き込まれてしまうのではないか」との不安を高めていきました。そして69年には、1月の東京大学安田講堂陥落、学生運動が激化します。

その一方で、フォーク界も、フォーククルセダーズのシングル「イムジン河」が東芝から発売禁止処分を受けたことを機に、「自分たち手でレコード会社運営を」の気運が高まり、69年2月、アングラ・レコード・クラブ(URC)が、高石ともやの事務所を拠点に作られました。最初は会員配布の形ではじまりましたが8月に岡林信康がアルバム『私を断罪せよ』から市販に切り替えました。岡林はシングルがメジャーでアルバムがインディーズという今の基準で言うと珍しい手法をとりましたが、当時の契約ではこれが可能でした。URCからは他に高田渡西岡たかし率いる五つの赤い風船小室等率いる六文銭、元ジャックス早川義夫などが作品を発表していきます。さらにもうひとつのフォークのインディ・レーベル、エレックもこの年に立ち上がり、広島でのフォーク・シーンのアーティストの作品を発表しはじめますが、その中に「よしだたくろう」(後の吉田拓郎)の名もありました。

そうして、フォークは日本の怒れる若者たちに必要なアンセムとなっていきました。69年6月には新宿駅西口広場で若者たちが岡林や高石、中川などの歌が歌いベトナム戦争に反対するフォーク・ゲリラが夜な夜な繰り広げられ、遂には機動隊から強制退去させられる事件が起きました。ただ、そこで歌われた歌を作った本人たちが登場することはほとんどありませんでした。ゲリラたちの中では「逮捕状を出されたことを自慢する人たちが、“高石や岡林の歌は前世紀の遺物”と言って古い関西フォークの歌を歌っている」と高田渡が歌の中で揶揄したような状況も生まれていました。カレッジ・フォークがブームだった66年からわずか3年で嘘のように様変わりしたフォークとその聴衆ですが、その後にイデオロギーをめぐって暴走し内ゲバで自滅した学生運動のような様相もここで既に存在していたことも事実のようです。

また、奇才・寺山修司主催の前衛演劇集団「天井桟敷」の17歳の劇団員、カルメン・マキがフォーク歌手としてデビューし、寺山自身の作詞による「時には母のない子のように」が大ヒットします。絵に描いたようなヒッピー風の美少女によるこれまでの日本の音楽界にないアングラな雰囲気に満ちたこの曲はこの時代の日本の若者のひとつの象徴でした。マキは69年の紅白歌合戦にジーンズ姿で出演して話題を呼びました。

ウッドストックで激動の時代がピークに

その一方、やはり海の向こうから日本に伝えられるロックも日に日に激化し、進化して行くばかりでした。ヴァニラ・ファッジアイアン・バタフライステッペン・ウルフといったバンドたちは分厚く歪むギターやオルガンと共にハードなサウンドを奏で、ムーディ・ブルースディープ・パープルなどはオーケストラとの共演も行います。

また、ジャズとの融合も盛んになります。それはブラッド・スウェット&ティアーズシカゴのようにブラスをメインにしたものから、ディランのバックをつとめたアル・クーパーマイク・ブルームフィールドらによるライブ・セッションでのアルバム制作、そして元クリームエリック・クラプトンと、ピンク・フロイドと並ぶサイケ・バンドの新星だったトラフィックの名シンガー、スティーヴ・ウィンウッドといった凄腕ミュージシャンが集まった俗にいう“スーパーバンド”のブラインド・フェイスも登場しました。

こうした新しいロックは当初は“アートロック”“ニュー・ロック”などと呼ばれ、やがて音楽の傾向によって“プログレッシヴ・ロック”とも“ジャズ・ロック”などとも呼ばれるようになります。そして、このテの新しい有望なバンドが現れては、キング・クリムゾンのように「ビートルズをチャートから追い落とした」などの売り文句と共に売り出されます。さらに「アートロックの雄」とのキャッチフレーズで、ジミー・ペイジヤードバーズを発展解消させ作ったハードロック・バンド、レッド・ツェッペリンが一気に頂点に向け駈けあがりました。

その一方で、 ボブ・ディランのようなアーティストは自分たちのやっていた音楽よりあえて古い音楽、よりブルースやカントリー、コスペル色などを濃くしたサウンドを展開する勢力も生まれました。それはディラン一派のザ・バンドや、ザ・バーズの元メンバーたちのバンドもそうだったし、もともとブルースを掘り下げたい指向の強かったイギリスのバンドもアメリカ南部めぐりなどをしてそれに続きます。ローリング・ストーンズキンクスなども、その傾向のもとで傑作アルバムをものにしていきます。このタイプの傾向のバンドとして、サンフランシスコのクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルがシングル・ヒットを連発してスターとなります。

また、音楽だけにとどまらず、映画でも、人生の軌道から外れて行く人を多く描いた「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれるタイプの作品が人気を得はじめ、『卒業』の音楽担当を手がけたサイモン&ガーファンクルがフォーク界の寵児となります。また、ミュージカルでもヒッピー文化を描いた「ヘアー」が大ヒットし、69年12月には日本版キャストまで早速制作されました。これに『真夜中のカーボーイ』や『イージーライダー』『いちご白書』が、ロック、フォーク系の音楽と連動するカウンター・カルチャー映画として続き、注目されました。

こうした流れの総決算とも言えたのが1969年8月15〜17日にニューヨーク州で行われたウッドストック・フェスティバルでした。延べ40万人も大きな事故なく乗り切ったこのフェスティバルは「愛と平和の3日間」としてヒッピー文化の勝利であるかのように伝えられ、サンタナスライ&ザ・ファミリー・ストーンクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングなどのニュー・スターも生みました。この模様は翌年に映画としても全世界的に公開され、日本を含む世界中の若者に伝えられていくことになりました。ただ、それが『イージーライダー』や『いちご白書』の結末も示しているように、結局「幻想」に過ぎず、現実の前に崩れ落ちて行くことに世界が気がついたのは、それからほどなくしてのことでした。

Sly&The Family Stone「I Want To Take You Higher」@Woodstock

参考文献

■WEBサイト
ジョーン・バエズ Wikipedia
History Of Disco
田名網敬一 Wikipedia
フォークキャンプ Wikipedia
フォーク・クルセダーズ Wikipedia
岡林信康 Wikipedia
URC
東京フォークゲリラの諸君達を語る

■書籍

「ロック革命時代―1965‐1970 強者ロッカーを生み出したロックの激動期」
青柳茂樹著 シンコーミュージック
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「そうだったのか!日本現代史」
池上彰著 集英社文庫
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「日本ロック紀GS編 コンプリート」
黒沢進著 シンコーミュージック
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「日本フォーク紀 コンプリート」
黒沢進、篠原章著 シンコーミュージック
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「日本のロック50’s〜90’s 別冊太陽」
平凡社
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「もう話してもいいかな」
松山猛著 小学館
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「MOJO WEST―つっぱり野郎とアーティストたちのロックパラダイス」
木村英輝著 木村 英輝
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東京人 2011年 03月号「青春のラジオ深夜放送」
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