コラムスピン :第107回:「ロックと日本の60年」第8章 パンク/ニュー・ウェイヴの日本伝来

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第107回:「ロックと日本の60年」第8章 パンク/ニュー・ウェイヴの日本伝来

ディスコ、AOR、フュージョンのブームと時を同じくして、それとはまったく異なるロックの新しい動きがニューヨークとロンドンを中心に動き始めました。そして、この頃には「日本語のロック」は当たり前のものとなります。

この記事の筆者

1970年生まれ。音楽ジャーナリスト。NHK-FMで「ライブビート」など制作後、1999年よりフリーの音楽ジャーナリスト。2004年、インディ・ロック雑誌「Hard To Explain」を立ち上げ現在も継続中。2010年、ブラジルのサンパウロに移住。ジャーナリスト活動は依然継続中でポルトガル語、英語の翻訳業も展開。海外エンタメの情報ブログ、THE MAINSTREAMは毎日更新中。

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70年代後半に「アリーナを湧かすアイドル・バンド」と「洗練された都会の夜が似合う大人のサウンド」が音楽界の主流を占めたことを前回、前々回でお話しましたが、この時代はそれだけではありません。水面下からではありましたが、新しい動きも起こっていました。今回はそんな話をしましょう。

日本に静かに訪れたパンクとセックス・ピストルズ

1976年暮れに発表されたイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』(第7章参照)ではこう歌われました。「1969年以来、スピリットは切れている」。これは、この連載の第4章で語られたような時代でロックは終わったという意味で、これはヒッピー世代の強い共感を得ました。ちょうどこの頃、アメリカン・ロックの雄、ザ・バンドが解散ライヴ『ラスト・ワルツ』で憂愁の美を飾ったこともあって、そうした感慨はとりわけアメリカン・ロック派に強いものがありました。当時、ロックのある部分が政治的な主張や実験性より享楽や洗練に向かっていたことは事実なので、この主張に正当性はあります。しかし、現在の視点から史実を見ると、これは正しくありません。なぜなら、ロックのスピリットは既に別のところから再生しはじめていたのですから。

ただ、その新しい波は、日本人にとっては実に静かな形で押し寄せて来ました。「ニューヨークでパンクという新しいロックの波が訪れているらしい」「ロンドンではパブロック、そしてパンクという新しいロックが注目されてきているらしい」。そういう話が出回りはじめたのは1976年の中頃のことでした。ただ、あくまでも「らしい」です。なぜなら、それを示す音源が世にほとんど出回ってなかったからです。今ならYouTubeもサウンドクラウドもあるので、デモやライブの音源でも世界中の人が耳にすることが可能ですが、インターネットもない時代、そういうもの聴きたければ現地に行くほかはありませんでした。この夏、NHK-AM「若いこだま」(第6章参照)のDJ、大貫憲章はロンドンとフランスにその実態をたしかめる為に向かい、気づかないうちに変容していた若者たちの姿に衝撃を受け、「パンクをファッションも含めた文化運動」と解釈します。また、「ミュージック・ライフ」の76年8月号には「ニューヨーク・パンク」の小さな特集が組まれ、以後、同誌で散発的にパンクが紹介されていきます。

1976年の秋の時点で、日本人がアルバムでパンクを体験できたのはパブロックの雄、ドクター・フィールグッドとニューヨーク・パンクの代表格ラモーンズだけでした。この時点で「パンクとはかつてのブリティッシュ・ビートを速く鋭くしたようなものか?」「パブロックはパンクに似てるがブルース・ロック寄りだな」との印象は耳の早い一部のリスナーには伝わっていたようですが、10月、日本ではじめて、当時のロンドンをもっとも湧かしていたバンド、その名もセックス・ピストルズのデビュー曲、「アナーキー・イン・ザ・UK」の演奏シーンが日本のテレビで紹介されます。その番組は日本テレビの「11PM」との声もありますが、諸々の証言を総合するにテレビ朝日の「NOKニューおもしろ倶楽部」の可能性が高いです。要は音楽評論家の今野雄二が紹介したのが事実のようです。

Sex Pistols「Anarchy In The UK」

この今野雄二のピストルズ紹介というのは、理に適うものでした。それは彼がロキシー・ミュージックをはじめ70sのグラムロック(第5,6章参照)のシーンに精通し、それに対するニューヨークからの回答とも言われたニューヨーク・ドールズの熱心な紹介者だったからです。このドールズの後期のマネージャー、マルコム・マクラーレンが手がけたのがピストルズだったのです。もっとも、こうしたグラムロック勢とアメリカのアンダーグラウンドのロックとの交遊は70年代初頭からはじまっており、ニューヨークのヴェルヴェット・アンダーグラウンド(第4章参照)やデトロイトのストゥージズの影響を受けたデヴィッド・ボウイが前者からルー・リード、後者を“イギー&ザ・ストゥージズ”名義でアルバムをプロデュースもしていました。こうした流れからもパンクにある種の背徳的なロックンロールの匂いは漂っていたと言えるでしょう。

ジョニー・ロットンが突然表紙を飾るも

ここを皮切りにTBSでの「ぎんざNOW」や大貫の「若いこだま」でもピストルズは紹介され、一部の少年少女が衝撃を受けます。それは思春期にとって刺激の強いバンド名もさながら、フロントマンのジョニー・ロットンの破れたジャケットや逆立った短髪のファッション・センス、そして、当時の基準ではすごく速く、かつ荒々しく聞こえたロックンロールがゆえでした。


MUSIC LIFE 1977年12月号

ただ、世間がクイーンベイ・シティ・ローラーズイーグルスに夢中になる中(第6章参照)、ピストルズの曲1曲だけでパンクが浸透するほど世は甘くありません。やはり77年当時、「アルバムが聴けない」知名度の低いアーティストでは、既に人気を獲得している多くのアーティストに太刀打ちできませんでした。パンクに興味を抱いた人たちはダムドストラングラーズザ・クラッシュザ・ジャム、パブロック関連だとエルヴィス・コステロイアン・デューリーなど順次世に出はじめたアルバムを聴いていくのみでした。なお、日本でのみ当時人気だったランナウェイズ(第6章参照)は今でこそパンクの領域で語られますが、そういう見方はまだ当時はありませんでした。

海の外からは「ピストルズ、レコード会社2社は契約を解除」「女王即位記念日に女王批判ソングを歌い大騒動」など、ピストルズのお騒がせニュースの数々は伝わってきてはいました。そんな矢先の77年11月、「ミュージック・ライフ」12月号でジョニー・ロットンがいきなり表紙を飾ります。アルバム「勝手にしやがれ」の発売に合わせたものでしたが、それでも一般的にはかなり大抜擢に近い表紙でした。ただ、皮肉にもピストルズはその2か月後の78年1月、全米ツアー中に空中分解してしまいます。多くの人がこれからパンクを知ろうとした矢先でした。

Sex Pistols「No Fun」

そして、何かが確実に変わった

しかし、ピストルズが解散しようが、パンクへの関心は世界的に高まっていきました。以降、イギリスではそれまでロックの中心だったハードロックやプログレのバンドが急激に人気を落とし、代わりにパンクバンドが台頭しはじめました。

イギリスの場合、ちょうどハードロックやプログレの代表バンドたちが最高傑作を発表したのが5年近く前の話になっており、加えて、長大化するばかりの楽曲からは緊迫感が失われ、バンドはメンバー・チェンジを無駄に多く繰り返し、アフター・ステージでセックス、ドラッグ、アルコールに明け暮れ、さらに税金対策のために国外で優雅な生活を送っていました。こうした姿勢はこの当時、工業の壊滅的な立ち後れによる低経済成長で国に夢がなく、かつ、過度の重税で家計が苦しく、さらに充実しすぎた社会保障ゆえに労働意欲も減退していた、夢も刺激もないイギリス国民の本音に応えるものではなくなっていたのです。そんな国民の期待にパンクは十分応えうるものであったし、それがアメリカの3分の1、日本の2分の1程度の人口規模なら、シーンの転覆はまだ可能だったのです。

もっともこの頃、既に、レコード会社側は「パンク」の過激なイメージを避け”ニュー・ウェイヴ“という言葉を使うようになっていました。そこにジョニー・ロットンの吐いた「ロックは死んだ」という言葉も重なり、シンセサイザーの使用や、パンク同様に社会への怒りを歌詞に託したボブ・マーリーなどに代表されたレゲエを自分たちの仲間としてサウンド要素として取り入れるバンドも増えていきます。

そして、日本でもパンク/ニュー・ウェイヴへの関心は高まります。78~79年には、ラジオではトム・ロビンソン・バンドブロンディブームタウン・ラッツカーズなどがかかりはじめ、雑誌ではニュー・ミュージック・マガジンでエルヴィス・コステロパティ・スミスディーヴォ、そしてこれまでローリング・ストーンズレッド・ツェッペリンなど王道ブリティッシュ・ロックの表紙の多かった渋谷陽一(第6章参照)の「Rockin’ On」でもパティ・スミスストラングラーズブロンディが表紙を飾りはじめます。

実験的だった日本のパンクへの最初の回答

そんな折、日本でもパンクのシーンが勃興していきます。1978年頃には東京で「東京ロッカーズ」と題したイベントが行われ、フリクションリザードなどが参加し、翌年にはオムニバス・アルバムまで発表されます。また関西では、非常階段アーント・サリーSSINUなどをはじめとして「関西NO WAVE」というイベントがはじまります。ただ、そのシーンは、ロンドンでわき起こった、少年少女たちが「僕たちのこれからのロック・カルチャーはこれだ!」と言わんばかりの誰もが参加可能な直情的なものではなく、近寄り易いとは決して言いがたいアヴァンギャルドなものでした。

ここに、この当時の日本人の生真面目なパンク観が現れているように伺えます。「パンクが新しい文化運動」なのはたしかなのですが、そこでリスナーにとっての共感を取り込む方向ではなく、内側に向いた孤高の方向性にどうしても流れてしまいがちだったのは、日本に息づく前衛音楽の伝統を感じさせます。それはクラシックの現代音楽の武満徹しかり、フリー・ジャズの阿部薫高柳昌行しかり。ロックの時代に入っても裸のラリーズ灰野敬二が60年代後半から後のシューゲイザーにもつながるフィードバック・ノイズまみれの轟音ギター・サウンドを奏でていました。また、ジョン・レノン夫人の現代芸術家ヨーコ・オノも、ソロ作でのアヴァンギャルド性で絶えずビートルズ・ファンの賛否両論を受け続けているのも有名な話です。

Friction「1979年のLive音源」

INU「ダムダム弾」

そして、この頃にパンク~ニュー・ウェイヴの雑誌「ロック・マガジン」「FOOL’S MATE」が創刊当初にプログレの雑誌でそこから路線転換したものであることにも注目です。現在、一般的には「パンクはハードロックとプログレを一蹴した」と言われがちですが、当時の日本のプログレ・ファンの一部は文化運動としてのパンク/ニュー・ウェイヴに興味を抱いていたことがうかがえます。そうしたところは、ジョニー・ロットン(この頃には改名して本名のジョン・ライドン)が実は“クラウト・ロック”と呼ばれていたドイツの前衛的なプログレ(ダモ鈴木のいたカンも含む)のファンで、ピストルズの後に結成したパブリック・イメージ・リミテッド(PIL)がそうした事実をにおわせる進化を遂げたことにも通じるところがあります。あるいはピンク・フロイドデイヴ・ギルモアが世に送り出すとのふれこみでケイト・ブッシュが登場し、ニュー・ウェイヴの時代に神秘的サウンドで人気になったことなども大きかったかもしれません。

また、「パンクはこれからの若者の音楽だ」とばかりに強く煽ったのが京都大学の西部講堂でロックのライブを運営する人たちでした。ここでは70年代初頭から国内の先鋭的なロック・アーティストのライブが行われていましたが、パンクの勃興時には東京ロッカーズ系のバンドのライブが行われただけにとどまらず、ストラングラーズXTCトーキング・ヘッズポリスといったパンク・ムーヴメントの本場の渦中にいたバンドたちによる貴重なライブが行われてもいました。

一般浸透されはじめたパンク/ニュー・ウェイヴ

ただ、パンク/ニュー・ウェイヴがリスナーを獲得していくにつれ、より直情的に共感を得やすい、より大きな規模でシーンを動かすアーティストが日本でも人気を得はじめます。その代表が79年の暮れにアナログ2枚組大作『ロンドン・コーリング』を発表したクラッシュでした。彼らはパンクロック当初の初期衝動や真摯な政治的姿勢を高めながら、レゲエ、ロカビリー、ジャズ、ソウルなどを融合しパンクを進化させました。そのストイックな熱い姿勢に男性ファンが多くつき、パンクを熱く盛り上げました。

The Clash「London Calling」

また、ザ・ポリススティングの俳優ばりの容姿とスチュワート・コープランドの玄人好みする卓越したドラム・プレイでアリーナ・クラスの人気を獲得し、ブロンディはフロント・ウーマンのデボラ・ハリーが妖艶な魅力で同性ファンの憧れの対象となり、ディーヴォゲイリー・ニューマンはシンセサイザーを主体としたポップ・ソングで人気となり、短期的なブームではありましたが、アダム&ジ・アンツバウワウワウなどのジャングル・ビートとその盗賊やモヒカンなどのファッションも話題を呼びました。そして、ザ・ジャムが、ザ・フーの『さらば青春の光』の公開タイミングと同時期に60年代半ばのロンドンでのモッズ・ムーヴメント(第3章参照)を現在に蘇らせたネオ・モッズのカルチャーが理解され、スペシャルズやマッドネスがレゲエの前段階のジャマイカ音楽で、かつてのモッズにも愛されたスカをリバイバルさせたりと、レトロでファッショナブルな中に温故知新な知的さをもった動きも同時にありました。

Devo「Whip It」

また、デヴィッド・ボウイロキシー・ミュージックといったアート系の旧グラムロック勢もニュー・ウェイヴ派が共鳴しやすいサウンドで存在感を示します。初期ロキシーのメンバーでもあったブライアン・イーノトーキング・ヘッズとタッグを組み、ワールド・ミュージックとエレクトロ・ミュージックを融合した斬新な音楽性でシーンを牽引します。

パンク/ニュー・ウェイヴはこうした雑多な刺激性を持って、日本の音楽リスナーを刺激していきます。大貫憲章は1980年にパンク/ニュー・ウェイヴ系のオールナイト・クラブ・イベント「LONDON NITE」をスタートさせ、また、1981年には東京で第1回のモッズ・メーデーもはじまるなど、リスナーたちが集う場所も生まれていきます。

日本と世界に衝撃を与えたYMO

日本でニュー・ウェイヴが盛り上がった背景には、国内のアーティストでまさに同時代的に大きな動きがあったためです。そして、その主役こそがYMOことイエロー・マジック・オーケストラでした。

はっぴいえんどティン・パン・アレイ細野晴臣サディスティック・ミカ・バンド高橋ユキヒロ、そして東京芸大卒のセッション系ミュージシャン坂本龍一によるYMOは、79年秋、2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』をリリースするタイミングで「トランス・アトランティック・ツアー」と銘打たれたイギリス、そしてアメリカのツアーを敢行します。当時まだエレクトロ・サウンドによるポップ・ヒットが国際的に注目されはじめたばかりのタイミングで、既にドイツにおけるクラフトワークのようにアルバム単位でこのサウンドに対するコンセプトが確立されていたYMOのパフォーマンスは驚きを持って受け入れられます。「電化製品の国」として既に世界認知されていた日本から、外国人がよく混同する中国の人民服を着てやって来た、と解釈もできるイメージ戦略も巧みに功を奏しました。YMOはこれを皮切りとした海外戦略で、イギリスでシングル「コンピューター・ラヴ」が17位、アメリカでアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」が81位まで上昇するヒットを記録しました。

YMO「ライディーン(Live1979)」

こうした欧米での大成功は日本にもフィードバックされます。このときの海外公演の模様を収めたライヴ盤『公的抑圧(パブリック・プレッシャー)』が初のオリコン・アルバム・チャートを制すると、『ソリッド~』も発売から約1年かけてオリコンの1位を獲得する大ロングセラーとなりました。さらにラジオの人気コメディ番組「スネークマン・ショー」との共演アルバム『増殖』も企画作にしてオリコンの1位を獲得しました。

こうして3枚のアルバムを1位にしたことで、YMOは音楽界のみならず、宝島やパルコ出版のビックリハウスなどのサブカル誌にも不可欠な存在となり、完全に日本のカルチャーの顔となりました。この頃の彼らの縦横無尽の活躍に、当時まだ子供だった電気グルーヴをはじめとしたひと世代後の日本のテクノ界の牽引者たちが強い影響を受けます。そして日本のみならず海外でも、OMDウルトラヴォックスデペッシュ・モードなどのエレクトロ・ポップ・バンドが影響を公言し、さらにデトロイト・テクノ勢でもその影響を認める人たちも珍しくありません。また、サブカルというよりはやや通俗的ではありますが、当時現象となった原宿のパフォーマンス集団「竹の子族」の踊る音楽に「ライディーン」が使用されたことでもその名が浸透しました。

このYMOの成功に続けと、日本の“テクノ・ポップ”勢の活躍が相次ぎます。立花ハジメ佐久間正英が在籍したプラスチックスも全米ツアーでThe B-52’sの前座をつとめ注目を集め、ヒカシューP-MODELもこれに続きました。これらのテクノポップ・アイコンは、江口寿史の漫画にも描かれたことで低年齢層にもその名が広がりました。また、YMOの友人世代のURCやベルウッドで活躍したかつての日本語ロック派(第4、5章参照)もこの流れに加わり、はちみつぱいを前身とするムーンライダーズも先進的な作品展開を行ない、あがた森魚がテクノポップ・ユニットのヴァージンVSを結成、さらに元ハルヲフォン近田春夫がプロデュースしたバンド、ジューシーフルーツが「ジェニーはご機嫌ななめ」の大ヒットを飛ばしたのもこの時期です。

RCサクセションによる“ロックンロール回帰”

また、この時期、日本のサブカルが“新しい波”として注目したもうひとつの大きな存在がありました。それがRCサクセションでした。彼らは70年代前半に井上陽水と同じホリプロ所属のフォーク・グループでした。しかし、陽水がホリプロを抜ける際に一緒にやめるのが未遂に終わったことで干されてしまう不遇を味わいます。しかし1979年、中心人物の忌野清志郎が突如、髪を逆立て派手なメイクをしてステージに立ち、ギタリストにフォーク・デュオ、古井戸のメンバーだった仲井戸麗市(チャボ)を加え5人組のロックンロール・バンドとして再生したところ、ライブの評判が口コミで広がり、みるみるうちに話題を呼びました。80年6月に、その熱狂的なライブを収録した『ラプソディ』で注目を集めると、不遇のフォーク時代の伝説の名盤『シングルマン』を含む計5枚のアルバムを81年の末までに一気に発表し注目度を急上昇させ、81年のクリスマス・イヴには日本武道館のライブまで実現させ、大成功します。

RCサクセション「よォーこそ」

その派手なファッション性に加え、清志郎の諧謔精神に溢れた問題ある歌詞や言動はセックス・ピストルズジョニー・ロットンにも相通ずるところもあったため、宝島などのサブカル誌はこぞってRCを追い、それは洋楽誌ロッキンオンの異例の表紙抜擢にまで至ります。RCはサウンド面で言うと清志郎がこよなく愛する60年代ソウルの影響の強いロックンロールで、その騒動の起こし方やチャボとのステージでの絡みもむしろローリング・ストーンズの日本での正当な継承者と言った方が近かったかもしれません。ただ、「ロックンロールへの原点回帰」やスキャンダラスな要素という意味でRCがパンク的なものと解釈されたことは少なくとも僕は自然だと思います。

また、福岡県からも、パンクに刺激を受けたバンドたちが登場し、シーナ&ザ・ロケッツARBTHE MODSザ・ロッカーズ、そして後にカリスマ化するザ・ルースターズなどが「めんたいロック」との呼び名もつけられ注目されることにもなります。これはシーナ&ザ・ロケッツのギタリスト、鮎川誠も在籍した60年代のストーンズやヤードバーズなどブルージーでストレートなロックンロールを信条としたサンハウスが後続のバンドへの伝説のヒーロー的存在として君臨していたことも大きいものでした。彼らの荒削りに原点回帰したロックンロールも十分にパンクロックと共鳴するものでした。さらに、埼玉からはクラッシュ直系のアナーキー、名古屋からはTHE STAR CLUBといった、パンクに直接的な影響を受けたバンドも登場します。こうしたバンドたちは、石井聡亙監督の『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市 BURST CITY』といった映画にもフィーチャーされ、サブ・カルチャー的にも話題を集めます。

この時期、英米のシーンでは、既にパンクを実験的に解体したポストパンクや、パンクをより激しくしたハードコア、さらにパンクの「怒り」から憂鬱や絶望に表現を変えたポジティヴ(ゴシック)・パンクも登場しはじめますが、日本でも暗黒大陸じゃがたら(後のJAGATARA)、スターリン戸川純ZELDAなど、そうしたさらなる新しい波に対応したバンドたちがアンダーグラウンドで支持を集めてます。また、これらパンク/ニュー・ウェイヴがイギリスやアメリカでもアンダーグラウンドでインディ・レーベルを拠点に活動していたこともあって日本での紹介もマニアックなものになり、「FOOL’S MATE」や「DOLL」といった雑誌が細かな情報を提供し、新宿をはじめ、下北沢や吉祥寺、高円寺に専門的なレコード店も生まれていきます。ライブハウスや街には、モヒカンやスパイキー・ヘア、顔を白く塗ったゴス・ファッションの人たちの姿も現れはじめました。

参考文献

■WEBサイト
Extreme The Dojo 馬の耳に念仏
Music Man-Net大貫憲章インタビュー
KAN TAKAGI BLOG
なつかしの70年代ポップス
東京ロッカーズ Wikipedia
京都大学西部講堂 Wikipedia
イエロー・マジック・オーケストラ Wikipedia
RCサクセション Wikipedia

■書籍

「レコードできくイギリスのパンク・ニューウェイヴ史’75~’90」
森脇美貴夫著 音楽之友社
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「UKニュー・ウェイヴ」
小野島大著 シンコーミュージック
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■DVD

ヒストリー・オブ・ロックンロール Vol.5 [DVD]
「パンク-ロックの破壊と蘇生/MTVが生んだスター達」
ワーナー・ホーム・ビデオ
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